ふぐについて
日本海沿岸域はふぐの宝庫であり、その種類も現在判明しているだけでも世界一といわれています。ぷっと膨らみ、おちょぼ口で可愛い鳴き声を発し、姿が大変滑稽なため、武家時代から有名な絵師によって数多く描かれています。
ふぐは身質が固いため、日本料理が誇るふぐ包丁技術の冴えで、薄く歯ごたえがあり淡い旨みを伴った独特の華麗なるふぐ刺しとなりますが、体内に猛毒を持つ大変危険な魚種であり、「ふぐは喰いたし、命は惜しし」と川柳にもあることは周知のことと思います。
ふぐについての由来
日本では弥生時代からふぐを「ふくべ」と呼び、大変馴染みの深い大衆料理として食べてきました。
豊臣時代、豊臣の家臣に多くの中毒者が出てふぐを食することへの厳重な禁止命令が発令されました。江戸時代に入ると人々は危険な食べ物にも興味が湧き、当たれば死ぬを(鉄砲に当たれば)鉄砲の劇鉄は(てつ)と呼ぶので、多くがさしを「てっさ」、鍋を「てっちり」と言う説が生まれました。
四代将軍徳川家綱時代には庶民には隠れた「 ふくとう汁」と「てつ」が人気を呼び、表に出ることなく美味しい魚として粋な遊び心を囃し立てながら、元祖二八そば、天ぷらと同時にふぐ料理の文化も今日に引き継がれています。
五代将軍綱吉時代、食文化が進み、浅草海苔の商品化と同時に流行に乗り江戸前寿司が出来、同時に肉のみそ漬けも人気を呼び、かの有名な忠臣蔵の大石内蔵助も好んで食したと言い伝えられています。
八代将軍吉宗時代には江戸市中に寿司、天ぷら、イノシシ、ふぐなどの専門的な料理が確立し始めました。
九代将軍家重時代に入ると白砂糖が製造され初め、十代将軍家治時代にはうなぎも流行し、屋台の元祖出店、うなぎの蒲焼きは庶民の人気を博しました。ふぐ(てつ)にも隠れた人気が高まりましたが、ふぐ中毒患者が多発し再度ふぐの販売に警告が発令されました。
十一代将軍家斎時代にはミツカンぽん酢が出現し、にぎり寿司とともにふぐ料理も研究され、危険な魚から安全に近い料理方法が考案され始めました。
全国的にも毎年ふぐ中毒が発生し、死亡者もでていることから、ふぐに対する正しい知識と理解を持って頂きたく、ふぐの種類、毒について、ふぐ料理などをご紹介していきます。